人に理解されなくても、人の話のネタになる人生を

「人に自分のことを理解してほしい。」

そう思うことってありますか?

私はあります。

ありますというか、ずーっと切に理解してほしいって思ってきた人間。

人に理解してほしい。
人に理解してほしい。
人に理解してほしい。

そんなことを常に思いながら生きてきた。

私は人とはちょっとズレた感覚を持っているようで、それを自分でわかっているから人にはその面を出せず、一部の人としか素を出すことができなかった。

今は前より少しはマシになっただろうか。

ただ、あまり素を出せないというのが昔からの癖になっているようだ。

普段は自分の意識にも上がらないが、無意識のうちにきっとそんなことを考えている。

しかし今日、やっぱりそんなこと考えなくて良いのだと思う出来事が。

 

 

今日は素敵な男性とお話をし(残念ながらデートではなく仕事の話)、その後はかつての嫁のみっけとご飯。

 

その男性にこう言われた。

「中野さんって僕の中で謎なんですよね、何やってる人なのか。」

そんなことを言われたので、

「何やってるも、この間まで普通の会社員ですよー。」

と答えておいた。

”謎”って何なんだろう?

”謎の女”とかちょっと憧れるけれども。

謎も何も私は何かしていただろうか???

って、”謎”って言いたいだけだが。

それはともかく、そんなことを一瞬考えたが、思考を目の前の話に戻す。

今されている活動について、客観的意見を求められていたよう。

色々な話が芋づる式に出てくるが、質問を通して余分な土を払い落としていき、相談事の本質はどこなのかを探る。

そんなことをしていると本質に当たったようなので少し客観的意見をさせてもらったらスッキリしていただいたようで感謝された。

こうやって、私のことはよくわからない”謎な人”という認識ながらも、私に興味を持っていただいて、声を掛けてもらえたことがありがたい。

その時こう思った。
別に謎な人間と思われていても、理解されなくても人の為になれるのならいいのかもしれない、と。

 

 

そして、その後のみっけとの話。

みっけは以前、私が住んでいた家に2〜3ヶ月?程(記憶が曖昧)滞在していた友人。

彼女と会うと元気が出る。

ちょっと私のバランスが崩れていたので、みっけに会いたいなと思い、連絡すると翌日に会うこととなった。

彼女とは一緒に暮らしていたのだが、彼女もさっきの彼と同じように私のことをあまり知らないようだということに最近気づいた。

先日、共通の友人たちと話をしていると

「私もよっちゃんのことあんまりまだわからんねん。」

という発言をしていて、

そうだったんだーーー!!!!!!

と、その時は一人目を見開いてショックを受けたことも久しい。

今回は彼女の好奇心のまま、色々な質問をされて、私は持論を展開し、ツッコまれ、またボケてツッコまれるの繰り替えし。

いや、ボケているつもりはないのだけれど、感覚がズレているから持論を言うと結果的にボケになってしまう。

そんなボケで今日は何回笑わせられただろう。

「えー、よっちゃんもそんなこと思うんや!」

と本気で驚かれる。

「いや、私だって思うし!」

と、本気で主張する私。

何もんやと思ってんねん!とこっちがツッコミたくなるが、そうやって一つ一つのズレがネタになって笑ってもらえるのが嬉しいところ。

「今回で(共通の友人に)話すネタがめっちゃ増えたわ!」

と大層喜んでもらえた。

 

おそらく大半が理解はされなかったようだが、話のネタにしてくれているのは嬉しい限りだ。

 

そんな今日の2組の会話で、ふと思った。

 

別に理解なんかされなくても、
誰かに面白いと思ってもらえて、
興味を持ってもらえて、
話のネタにでもなっていたら、
それでいいんじゃないか、と。

 

理解はされなくても、
興味を持ってもらえて、
受け入れてもらえたら、
それでいいんじゃないか、と。

 

基本、自分と同じ人間なんていないのだから、理解してほしいという気持ちを持つこと自体がナンセンスであったのだけれど、どうしてもそこを求めてしまう自分がいた。

そうやって、私はずっと理解者を求めてきたが、
別に理解なんかされなくてもいいんだ。

ただ、話のネタにされたらいい。
そして、私は私を受け入れてくれて、ただ一緒にいたい人と一緒にいればいい。

 

これからは、
人に理解されるための人生ではなく

人に理解はされなくても、
人の話のネタになる人生を。

そっちの方が、楽だし楽しいから。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です