デザインするのか、デザインされるのか

近頃、仕事としているシェアサイクルの新しい専用駐輪施設の開業が迫ってきているため、諸々と準備に勤しんでいる。

その中で、施設に設置する備品発注の整理のために、工事用の平面図に設置備品を書き込みつつ、必要項目と数量を確認するといった作業を行っていた。

備品をどこにどうやって設置して、いくつ必要か等は程度の差はあれ前職の設計と同じ。

前職の時は毎日図面を見ていたので、懐かしさを感じながら仕事をしていた。

それと並行で、拡大に伴うPR用のポスターやリーフレットのデザインやら各種媒体に発信するための記事作成。

何か参考にならないかと、電車の吊り広告や目に入るポスターやらパンフレット、雑誌、テレビCM、ネットを見たり。

一方で現場からの問い合わせを受けて、マニュアルの改定やサービス利用規約の見直し等を行う。

いろんなことやってるなぁと思いながら。

 

全ては意図的にデザインされている


それぞれの仕事は細かく言うとジャンルが異なるけれど、異なるジャンルの中でも共通点があったりする。

それは、どれも「デザイン」しているということ。

言い換えれば、私はデザイナーかもしれない。

都市のデザインは、言い換えると人の動きや流れをデザインする。

どういった街の構造であれば、どのように人が集まって、動いて、経済発展がなされるか等を予測してデザインをする。

建物自体や外装、看板、テレビCM等の広告物、文章もそう。そういったものは、人の注意や感情を引き出す。色、形、言葉、全てに意図がある。

言い換えると、人の意識や感情をデザインしているということ。

物理的なことで言えば、店舗内の商品の配置は、人の感情の移行に合わせていたり、エンターテイメント性を考慮していたり。

商品そのものも、ほとんどのものがどういった人がどのような価値を手に入れたいのか等を考慮してデザインされている。

目に見えないようなマニュアルや規約をつくっていると、いかに作り手側の手間がかからないかを追求したものがルールとしてデザインされている。

色々なものの作り手側に立ってみてふと思うのは、目に見える物理的なものは全て、目に見えないルールや常識といったものについても全ては誰かが意図的に作っているということ。

 

知らず知らずの間に動かされている


逆の立場からすると、自分の意思で動いているつもりが、もしかしたら結果的に誰かの意思によって動かされている。

「そんなことない。自分は自分の考えを持っているし、行動している。」と思うかもしれないが、実際に作り手側からすると、人の動きを想定してデザインをして、想定通りに人が動く現象が起こっているのだ。

全てはエンターテイメント


なんか、人に操作されているように感じるかもしれないけれど、それが自分の価値観と合致するのであれば、それでいいと私は思っている。

音楽や芸術、手品等のエンターテイメントと同じ。

作り手側はお客さんを楽しませようとしてエンターテイメントをつくり、お客さんはそれを楽しもうと、会場に足を運んだり、ネットやCDで情報を買って家で楽しんだりする。それと同じ。

ただ、エンターテイメントなら、自分の趣味嗜好がわかりやすく反映されていることが自分でも自覚できる場合が多いが、自分で知らず知らずのうちに作り手側の意図にハマってしまっていることがあるということだ。

特に現代ではあらゆる情報が乱立しており、あらゆる人々の意図を受け取ることができる状況である。

都心に出ると、溢れるばかりの情報に触れ、スマホを開くと無限の情報がある。

それを知らず知らずのうちに、受け取っていると、誰かの意図に沿った人生を送ってしまうかもしれない。

人間関係も誰かによって作られたものかもしれない


人間関係だってそう。

人間関係を構築する学校や職場についても、運営側からすると「こういった人が集まって欲しい」と思って受験案内や求人広告を出す。

自分の考えだと思っていたつもりでも、実は自分の意図とは関係なしにその環境に入ってしまっている人は、望まない人たちと関わってしまい、自分の望まない人間関係を形成しているかもしれない。

 

目の前にのものが自らが望んでいるものと合致しているかどうか


色々と書いたものの、悲観する必要は一切ない。

今、目の前に広がっている光景が、自分の自らが望んでいるものと合致しているのであればそれでいいのだ。

マジックショーを見に行く人は騙されることを楽しみに会場へ足を運ぶ。

好きな人と一緒にいるとき、
好きな服を着て好きな場所に行くとき、
好きなアーティストの音楽を聴いているとき、
好きな映画を見ているとき、

そんなときは最高に気持ちがいい。

自分の行動や感情が自ら望んでいるものと合致していればそれでいい。

作り手側も、人々のより良い選択を促したいと考え、作っているものが大半を占めているので、騙されているというマイナスな感覚はむやみに持つ必要はない。

ただ、人がデザインしたものによって動かされている場合は以外と多い。

昔、道路の設計をしていると初対面の人に話をした時、

「え?道路って設計するものなんだ。」

と返されたことを思い出す。

当たり前と思っていることも、実は誰かによって作られている。

その世界の中で、自分に合ったものを選択して生活しているかどうか。

それを自覚できるだけで目の前のものは変わってくる。

 

どんな人でもデザインしている


見方を変えると、どんな人でも自分の望んでいるものが目の前にあっても何も不思議ではないのだ。

自分自身に自覚がなくても、全てのことは実は自分の選択によってデザインされている。

好きな音楽を選んで聞くように、自分の好きなことを選び、毎日をデザインしていく。

そうすれば、いつもより少し、毎日が楽しくなるかもしれない。

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